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こんにゃくはインドネシアが原産で、中国を経て日本に伝わった。関東地方で初めて栽培されたのは野洲方面といわれ、江戸中期に水戸領へ移入されて久慈川流域の保内郷(現茨城県大子町域)で生産されるようになった。
大子町は茨城の北端、栃木との境を南北に走る八溝山地の東斜面に位置し、久慈川が迂回して東南に流れている。昭和32年に山間地帯特産指導所が設置され、それを機に大子町では自然生栽培から植玉栽培に変わった。群馬ではすでに植玉栽培に変わっていたが、茨城は在来種のほうが優秀だったため、品種改良が遅れた。
40年代になると、耕地条件の良い他県では植玉栽培が急増した。特に群馬は品種の更新に取り組み、全国1位の産地に成長。茨城は4位となった。その後、3年生で成熟する「はるなくろ」や「あかぎおおだま」が増え、大子町でも在来種から「あかぎおおだま」への更新が進んだ。
大変な作業だった掘り取りの機械が普及したことで、こんにゃくの栽培が盛んになったものの、栽培面積は4位のまま。過去最高は3,000ヘクタール。平成5年ごろから衰退し始めた。
こんにゃく芋は冬期の保存に弱く、重いために輸送が困難。販路も狭く、価格も安価で、農家の収益は少なかった。これに着目したのが、常陸国久慈郡諸沢村地割(現常陸大宮市)の農民、中島藤衛門である。「何としても山間地の農家の暮らしを豊かにしたい」と思い、1759(宝暦9)年から「粉蒟蒻」の研究に取り組んだ。
そして18年の苦心のすえ、1776(安永5)年に生玉を荒粉にし、こんにゃくの原料にする方法を発見した。それは、秋に収穫した生玉をきれいに洗い、厚さ5〜6ミリメートルに薄く切り、約1メートルのしの串に刺して天日乾燥してから、石臼で挽いて粉末にする―というもの。これによって輸送が困難だったこんにゃくを遠方にも販売できるようになり、販路が広がった。また当初は石臼だったが、水車で挽くようになって生産性も高まった。(続く)

ホテルグランヴィア京都で開かれた京都府豆腐油揚商工組合の新年懇親会。
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