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その後、荒粉が開発されると、こんにゃくの市場は北は仙台、西は大阪まで広がり、各地から仲買人が入り込んできたため、品質を維持するには出荷元で管理する必要があった。そこで中島藤衛門は、近在の村の2人とともに会所の設立を申し出た。
水戸藩は諸沢村地割に蒟蒻御国産会所を開設するため、お触れを通達。1800(寛政12)年に中島藤衛門を元締めにして会所を開設した。今度は生玉ではなく「粉蒟蒻」を江戸に送って御用商人の手に売り渡した。
相場は、保内郷各村の生産者総代や業者が一同に集まり、会所の役人とともに決めていた。相場が決まると商人は会所から粉蒟蒻を買い入れて販売したが、会所で定めた値段より安く販売する商人も現れた。また奥州のものを水戸の「粉蒟蒻」と偽って大阪に売り込む悪徳商人もいた。
当時、水戸藩の信頼を得て西日本一帯の販売を任された羽州屋の高田久衛門は、その取り締まりを東大阪北御郡に願い出ている。それを受けて会所では「粉蒟蒻」を大阪に出荷する際、「水戸御國産物」と焼印を押し、大阪・堂島の蔵に入れて商人に渡すときには「大阪蔵改め」とさらに焼印を押すことで奥州の「粉蒟蒻」と区別することなどを定め、厳しく取り締まった。
幕末には保内郷のこんにゃく生産高が増加し、安政から文久にかけての10年間は会所の運営が最も活発に行われた。大子町史によると、1861(文久元)年の年間荷高は1970駄(1駄=俵4つ分の160キログラム)で、移出高は約22,280両とある。
高田久衛門との取引は1855(安政2)年ごろから急増し、その支払い額は年間に1,000両単位にも及び、現金だけでなく、為替取引も行われていたことが当時の資料から分かる。(続く)

ホテルグランヴィア京都で開かれた京都府豆腐油揚商工組合の新年懇親会。
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社史を読むだけでも永持孝之進名誉会長経営哲学が見える1冊。
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