こんにゃく横丁

「水戸藩と袋田蒟蒻会所」(4)

2010-9-6

1831(天保2)年に大子地方を含む太田奉行となった藤田東湖は領内の126村を巡回し、庄屋と面接している。当時の記録「巡村目録」に「桜岡家は文化年間(1804〜18)から庄屋をしている。源次衛門はしっかりしており、信頼できる人物である」とあり、藤田東湖は桜岡源次衛門を認めていた。

桜岡源次衛門は1832(天保3)年に袋田村の庄屋に抜擢され、養父の死を転機に南田気に水車を作って「粉蒟蒻」の製造に乗り出し、成功している。1843(天保14)年、1基に10個の臼が備わる水車を滝川に2基増設し、その後、藩有林の管理と治安係を兼ねた山横目の役を仰せつかり、出世を遂げて揺るぎない地位を確立した。保内地方屈指の豪農となり、1855(安政2)年に設立された袋田蒟蒻会所の運営責任者となった。

この袋田蒟蒻会所の設立には、改革派前北郡奉行の高橋多一郎と郡奉行の野村彝之介の意を受けた関鉄之助が当たった。

関鉄之助は幕府の大老、井伊直弼を襲撃した「桜田門外の変」で現場指揮をとっていたが、このとき軍資金として200両を提供したのが袋田蒟蒻会所を仕切っていた桜岡源次衛門だった。

事件後、潜伏中の関鉄之助の生活は持病である蜜尿病の治療に追われていたが、漢詩や和歌の力量があり、優れた詩人としての一面も持っていた。1861(文久元)年に新潟の湯沢温泉で捕らえられ、水戸の赤沼に送られ、翌年4月に江戸で斬首された。

明治に入ると蒟蒻会所は廃止され、自由に取引が行われるようになって「粉蒟蒻」の製造技術が各地に伝わった。群馬では南牧村で最初にこんにゃく栽培が始まり、「粉蒟蒻」の産地となった。

群馬・富岡の荒物商、篠原粂吉が大子地方に砥石を売りに行った際、製粉事業が盛んに行われていることに目をつけ、保内郷大生瀬村で大規模なこんにゃく商を営んでいた齋藤周造に指導を懇願。齋藤周造は1876(明治9)年秋に群馬の北甘楽郡砥沢村に移住し、水車を動力とする「粉蒟蒻」の製法を伝授した。これによって下仁田地方はこんにゃくの産地になり、栽培はもちろん、加工産業の中心にもなっていった。

このころ保内地方では秋の収穫が終わると「藤衛門講」が行われた。これは豊作を願う男子だけの夜の会合で、藤衛門の掛け軸を掛け、御神酒を供えて感謝の礼拝を行うもの。荒粉が高値だった1955(昭和30)年ごろまで盛んに行われていたが、経済の高度成長とともに姿を消した。

現在は中島藤衛門が祀られた蒟蒻神社で生産者や製粉業者らが年に1度、中島藤衛門の偉業を敬仰し、豊作や需要増大、価格上昇、商売繁盛を願っている。

かつて奥久慈地方におけるこんにゃく芋は、コメや麦を基幹作物として農家の経済を支える主要な特産物だったが、平成5、6年を境に農家数、栽培面積ともに減少し、農林水産省の統計では17年の栽培農家数75戸、栽培面積75ヘクタールと往時の面影は見られなくなった。(終わり)

郷土史研究家、小澤圀彦氏(「第1回こんにゃくサミットin茨城大会」の講演会より)



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