納豆横丁

吉行淳之介と納豆

2007-8-7

「人間の声には、職業とその人の精神構造が滲みこんでいる」と、小説家の吉行淳之介(1924〜1994年)は記している。ある病院の待合室で本を読んでいると話し声が聞こえてきて、その声音に同業者だなと吉行が目を上げると、果たして文芸評論家の中村光夫(1911〜1988年)だったという。

「『声柄』という言葉があるが、それによって人柄まで判断できるかどうか」と問いかけながらも、自分自身ではできる気でいる吉行。ある日、男性の声で電話がかかってくる。「もしもし」という声だけで、これは同じ職業の人ではないなと吉行には分かった。男は刑務所に2年入っており、その間の日記を買ってくれないかと所望する。吉行は材料を使って小説を書かないので断ろうと思うが、男の「声柄」が気に入り、会うことにした。

「中年の男があらわれた。近県のヤクザの親分で、賭博の手入れをされて二年間ムショに入っていた、という。ロイド眼鏡をかけ、下町の商店主といった実直そうな風貌の人物で、きちんとネクタイを締めている。藁づとに入った納豆とヨーカンを、土産にくれた」。男は10冊ほどの大学ノートに細かく書き込んだ日記を持ってきた。吉行は拝見料を支払う。男は足を洗って、ささやかにカレーライス屋でも開きたいと言うのだが、その資金の何十分の一にもならない額だ。半月ほどして、再び男が訪ねてくる。「前と同じように納豆をもっている。あれは藁に入っていないと、どうも感じが出ない」。納豆菌は稲藁に多数生息しているから、藁づとに煮た大豆を詰めれば発酵して納豆ができる。そうして納豆を作るのが昔は当たり前だった。それを吉行も懐かしんでいるのだろう。男は財布を入れた上着を盗まれ、帰りの汽車賃がないと訴え、吉行は男に金を渡す。

男が3度目に訪れた時も納豆を持参して来たが、何も要求しなかった。雑談の挙げ句、「センセイ、ヤクザとつき合うときは、もうここまで、とピシャッとやらなくちゃいけませんよ。キリがなくなります」とアドバイスまで与える。「いったい彼の目的は何だったのか。小説家という種族を痛めつけてやろう、とでもおもっているうちに気が変ったのだろうか。その後、カレーライス屋開店のチラシを送ってきた。いまでも、年賀状がくる」とエッセーは締めくくられる。実直な風貌のヤクザと声柄の良さ、そして納豆の組み合わせがおもしろおかしい。

参考文献:吉行淳之介『ダンディな食卓』(角川春樹事務所)

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