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何事についても、発祥や始祖の類は神話や伝説めいた薄靄の中に包まれていて、現在では判然としないことが多々ある。「らしい」とか「だろう」といった揣摩憶説に振り回されることなく、足元を固めることが必要だ。新説に飛びつく前に、では、現行の説は何に基づいたものだったのか、裏を取っておくこと。文献をたどり、史料を確定させた上で、何が本当に確かなことなのかを見直す作業も毎回重要になる。
豆腐は中国が発祥の地だとされています。
その豆腐の作り方を発見したのは、漢の初代王の孫、劉安で、武芸や学問にたいへん秀でており、「淮南子」という膨大な書物を残したことで有名です。
▽豆腐は冷蔵庫になくてはならない食品。昔は、豆腐を買い置きすることはなかったが、今は1週間も日持ちがする。
▽企業数が毎年減っているが、主な原因は何か。また、国産大豆を増産する動きがあるようだが、実際のところはどうか。
▼特に規模の小さい豆腐店は、後継者難で廃業に追い込まれている。倒産はほとんどない。豆腐店は昭和30〜40年ごろに相次いで開業したから、現在70歳ぐらいの高齢者が多い。体調はもちろんだが、製造機械が故障すれば、新たに設備投資をして修理するだけの元気はない。
戦後、米国の統治下にあった沖縄が日本に返還されたのは、昭和47(1972)年5月15日。この日の午前0時をもって、日本国憲法をはじめとする日本の法令が沖縄にも適用されることになった。沖縄といえば「島豆腐」。堅くて、大きくて、アチコーコー(熱々)で食べるのが流儀だが、その島豆腐にも日本の法律が適用されることになった。
「高知市周辺の豆腐は朝鮮の食文化の影響下にある」と鄭大聲(チョン・デ・ソン)氏は主張している。鄭氏が冷や奴で食べた土佐の豆腐は「調理前の大きな豆腐1丁に、箸をぐさりと刺して持ち上げてもくずれない」ほど非常に堅く、「通常の絹ごしや木綿ごしの味わいとは異なり、ざらりとした感触で固いが、豆腐そのものが持つ特有の香りと味覚は同じ」で、この豆腐に鄭氏は「北朝鮮の平壤で食べた豆腐や、母が日本の豆腐を再加工して作った豆腐の感触が思い出されてしまうのだ」と印象批評を述べている。
「食品、添加物等の規格基準」(昭和34年12月28日厚生省告示第370号)には、豆腐の製造基準および豆腐の保存基準が明記されており、豆腐の製造基準については以下の8項目が挙げられている。なお、ここで言う「包装豆腐」とは充填豆腐のことを指す。
豆腐の年間生産量を調べるにあたって、総務省統計局の家計調査報告から1世帯当たりの豆腐の購入数量(丁)を知ることができ、その丁数に世帯数を乗じれば、大体の消費量(≒生産量)を概算はできる。しかし、1丁当たりの重量の異なる地域性(沖縄と北陸では3倍もの差が生じる)などを考慮すれば、どれだけの精度が期待できるかについては疑問が残る。
その点、農林水産省が公表している食料需給表に付された参考統計表の「加工食品等の生産量」は、穀類、でんぷん、豆類・油脂類、野菜、肉類を主原料とする加工食品に分けられており、豆類・油脂類のシートで豆腐、油揚げ、納豆、凍り豆腐といった大豆加工食品の生産量の推移を見て取れる(食料需給表は「食料需給情報ステーション」のホームページからダウンロードできる)。数値は総合食料局食品産業振興課の推定、単位は1,000トン。別表に4品目の大豆加工食品の生産量の推移を示した。
2004年の豆腐の生産量は125万トン。豆腐1丁を平均300グラムと仮定した場合、およそ41億6,667万丁の豆腐が製造された計算になる。食料需給表から割り出した数値とは別に、総務省統計局の公表している家計調査から、2004年の(農林漁家世帯を除く)1世帯当たりの豆腐購入数量74.48丁に同年(2004年3月31日現在)の世帯数4,983万7,731を掛けて、約37億1,191万丁。以前、 「豆腐は何丁、売れているか?(2)」でも表に示したとおりである。いずれにしても、年間40億丁前後の豆腐が生産(消費)されているのである。また、農水省の「大豆のホームページ」から「1キログラムの大豆から11〜13丁(3.3〜3.9キログラム)の豆腐ができる」との解説を援用して逆算すると、およそ32万1,000〜37万9,000トンの大豆を使用したと推測される。同じく農水省総合食料局食品産業振興課の推定した「食品用大豆の用途別使用量」(2004年度)を見ると、豆腐・油揚げは約49万6,000トンとなっている。
| 豆腐 | 油揚げ | 納豆 | 凍り豆腐 | |
|---|---|---|---|---|
| 1971 | 1,022 | 194 | 121 | 13 |
| 1972 | 1,054 | 200 | 122 | 14 |
| 1973 | 1,085 | 210 | 122 | 14 |
| 1974 | 1,058 | 194 | 124 | 12 |
| 1975 | 1,068 | 196 | 122 | 12 |
| 1976 | 1,068 | 196 | 124 | 13 |
| 1977 | 1,097 | 201 | 130 | 14 |
| 1978 | 1,097 | 201 | 135 | 14 |
| 1979 | 1,114 | 204 | 142 | 14 |
| 1980 | 1,114 | 205 | 153 | 14 |
| 1981 | 1,128 | 207 | 153 | 14 |
| 1982 | 1,136 | 208 | 154 | 14 |
| 1983 | 1,163 | 213 | 155 | 14 |
| 1984 | 1,171 | 215 | 157 | 14 |
| 1985 | 1,178 | 216 | 158 | 14 |
| 1986 | 1,186 | 217 | 160 | 14 |
| 1987 | 1,198 | 220 | 169 | 14 |
| 1988 | 1,212 | 222 | 178 | 14 |
| 1989 | 1,224 | 224 | 187 | 14 |
| 1990 | 1,234 | 226 | 193 | 14 |
| 1991 | 1,234 | 226 | 194 | 14 |
| 1992 | 1,234 | 226 | 194 | 14 |
| 1993 | 1,214 | 223 | 196 | 14 |
| 1994 | 1,242 | 214 | 196 | 14 |
| 1995 | 1,242 | 214 | 198 | 14 |
| 1996 | 1,240 | 213 | 207 | 14 |
| 1997 | 1,245 | 213 | 220 | 14 |
| 1998 | 1,247 | 214 | 230 | 14 |
| 1999 | 1,240 | 212 | 229 | 13 |
| 2000 | 1,240 | 211 | 220 | 13 |
| 2001 | 1,240 | 211 | 232 | 13 |
| 2002 | 1,245 | 212 | 254 | 13 |
| 2003 | 1,245 | 212 | 247 | 14 |
| 2004 | 1,250 | 213 | 250 | 15 |
嫌いな食べ物ナンバーワンとして「TOFU」が挙げられる国–アメリカへ1980年代半ば、森永乳業の現地法人設立のため、雲田康夫氏が派遣された。雲田氏がコツコツと辛抱強く、米国に豆腐を認知させ、商売に励む様を描いた奮戦記『豆腐バカ 世界に挑む』の中で気になる記述がある。1970年代、森永乳業が牛乳で培った無菌包装の技術を豆腐にも応用するための研究開始、ついに、10か月間も新鮮さを保つことのできる無菌包装豆腐の開発に成功したころの話。「当時、(豆腐の)日本での『市場規模』market sizeが約4,000億円もあり、1日に1,200万丁が消費されていた。これを毎日牛乳と一緒に玄関の横に取りつけてある牛乳受け箱に配達すれば、家庭の主婦に喜ばれることは間違いない。“豆腐への決断”は速かった」
既にルートの確立している牛乳と同じ日配品として豆腐を売り込もう、という着眼点も面白いのだが、ここで問題にするのは、市場規模および1日当たりの消費量である。本紙では豆腐業関連の資料として、総務省統計局、厚生労働省、経済産業省などの公表した調査結果を利用しているが、その辺りの資料を用いているのだろうか。例えば「森永が防腐剤を使用しないで、しかも無添加additive-freeで、完全無菌の豆腐の開発に成功したことが、当時の日本の豆腐メーカー32,000社に与えた衝撃は、想像以上に大きかった」と書かれているのは、厚生(労働)省の発表する「許可を要する食品関係営業施設数」の豆腐製造業の数から採ったのではないかと推測される。1976年の豆腐製造業者数は3万2,047社で、雲田氏の挙げた数字と合致する。
断っておくと、豆腐の市場規模は、家計調査の1世帯当たり家計支出に該当年の世帯数を掛け合わせた家庭消費金額と等しくはないし、豆腐全体の消費量も1世帯当たりの購入数量に世帯数を掛け合わせた値とは異なる。雲田氏は「日本は2004年の実績によると、豆腐が1日に1,300万丁消費されているという」と記す。統計局のデータ等を使って試算してみると、2004年の豆腐に対する1世帯当たり(農林漁家世帯を除く全世帯)の豆腐購入数量74.48丁に、世帯数4,983万7,731戸を掛けて、年間37億1,191万4,205丁。これを365(日)で割ると、1日当たり1,014万1,842丁という勘定になる。
大豆にはサポニンという成分が含まれる。サポニンは、血の巡りをよくする効果や肝臓・血液中のコレステロール値を下げる作用があるといわれ、肥満、便秘、成人病、大腸がんなどの予防に役立つと期待されている。ところが、このサポニンは豆腐を製造する上でやっかいな泡の原因となっている。サポニンは非常に泡立ちやすく、昔はその泡立った汁を石けんの代わりに使ったほどだ。
豆腐の製造過程で、浸漬した大豆をすりつぶした「呉(ゴ)」を釜で煮ると、サポニンが激しく泡立つ。この泡を放置しておくと煮えムラの原因になるうえ、おからを分離する際に著しく歩留まりが低下する。そこで欠かせないのが食品添加物の消泡剤である。
消泡剤には、グリセリン脂肪酸エステル、油脂系の炭酸マグネシウム、レシチン、シリコン樹脂などいくつかの種類があり、メリットとして(1)豆腐のきめが細かくなり、弾力が生まれる(2)歩留まりの向上(3)おからの水切れが向上する(4)離水防止、地釜のコゲつき防止の効果–などが挙げられる。
最近、パッケージに「消泡剤不使用」「無消泡剤」と表記された豆腐をよく見るが、これは近年、豆腐製造に用いる煮釜の技術開発が進み、消泡剤を使わなくても泡の発生を抑えることができるようになったからである。しかし、まだ一部の機種に限られるため、より品質の高い豆腐の製造には消泡剤が欠かせない。
豆腐は8割以上が水分で「水が命」ともいわれます。
水には大きく分けて硬水と軟水がある。違いは水に含まれるカルシウムやマグネシウムの量。これらの含有量を数値化して硬度といい、100の値で区分される。硬度100以下の軟水はミネラル分が少ないため、クセがなく飲みやすいのが特徴。逆に、硬度100以上の硬水はコクがあり、クセもある。日本では、食味の観点から硬度の目標値は10〜100ミリグラム/リットルとされ、東京の水道水の硬度は60ミリグラム/リットル(平成15年度)となっている。
このように日本では軟水が好まれるが、ヨーロッパなどでは硬水が一般的。その差は国土の地形の違いによるところが大きく、日本のように国土が狭く、水が地中を通る時間や河川が短い地形では硬度が低くなる。一方の欧米では、石灰質の地域を長い時間をかけて通るため、硬度は高くなる。
軟水と硬水の違いは、料理にも大きく影響する。軟水は食品のうまみを引き出し、風味を際立たせるといわれる。日本食のように素材そのものの味を引き出す料理に適している。一方の硬水は、肉の臭みを和らげアクをよく出す特徴があり、肉の煮込み料理など欧米的な料理法に向いている。
豆腐には中性からややアルカリ性の水が適しており、軟水がよいとされている。ただし、これはあくまで一般的な話。使用する大豆の品種や製造方法によって豆腐の味は大きく変わるため、原料や製法にあった水を選ぶことが欠かせない。

無添加という言葉をよく聞きますが、確かに健康に害を与えるような添加物は、できれば口にしたくありません。食品添加物とは、品質改良や保存性維持のために添加するもの。食品衛生法に基づいて、食品添加物には厚生労働大臣が指定した化学合成添加物と天然添加物があり厚生労働大臣が指定した指定添加物と既存添加物があり、決して体に害を及ぼすものではありません。それどころか私たちの食文化に決して欠かすことのできないものです。
その良い例が、豆腐を凝固させるにがりです。にがりはれっきとした食品添加物です。近年、にがりの機能性が大変注目され、ブームにもなりました。豆腐を作る際に豆乳を凝固させる添加物、つまり凝固剤にはいくつかの種類があります。一般によく使われているのが、にがり、硫酸カルシウム、グルコノデルタラクトンです。
にがりは「天然の海洋ミネラルが80種類以上も含まれており、健康やダイエットに大きな効果が期待できる」として話題になりました。国内で製造されているにがりのほとんどは、汲み上げた海水を大きな釜で煮詰めて精製されます。昔ながらの方法としては、塩田に海水をくみ上げ、日光の力で塩を精製してにがりを採取する方法があります。また最近では、海水に電流を流してイオン化し、フィルターでろ過する方法や、海洋深層水から逆浸透膜でにがりを精製する方法などもあります。マグネシウム、鉄分、マンガン、カリウムなどが豊富で、呼び名の通り苦いのが特徴。1トンの海水からわずか7リットルしか作れないとも言われています。
次に硫酸カルシウムですが、これは日本が戦中であったころ、にがりからマグネシウムが作れるということから、にがりが統制品になったため普及したと言われます。特徴は、比較的容易に豆乳が凝固でき、つるっとした食感が得られることです。しかし、使用量を間違えると苦味が出ます。
最後にグルコノデルタラクトンは、呼び名こそカタカナでいかにも人工的に作られた凝固剤と思われがちですが、実は大昔から自然界に存在する添加物で、大豆にも含まれている成分です。最近ではハチミツ酸と呼ばれることもあります。これも使用量を間違うと酸味が強くなるという欠点がありますが、幅広い製品で使用されています。
凝固剤の違いによってどう豆腐の味が変わるのか、一度食べ比べてみてはどうでしょうか。新たな発見があるかもしれません。
当記事にといて、当初「食品添加物には厚生労働大臣が指定した化学合成添加物と天然添加物があり」という箇所がございましたが、読者の方からのご指摘により
「食品添加物には厚生労働大臣が指定した指定添加物と既存添加物があり」
と訂正させていただきました。ご教示、ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。
豆腐は、大豆たんぱく質を水で抽出して熱変性を行い、凝固剤で固めた製品。各製造工程でたんぱく質の変化を的確に捉えることが、技術のうえで重要となる。
豆腐の製造は長年、職人的な経験と勘で行われ、技術の理論的体系化はなされなかった。しかし流通業者による同一規格製品の広域販売は、豆腐を地域食品的性格から脱皮させるとともに、製造規模拡大に伴う設備の合理化や製造技術向上をもたらした。期限表示やHACCP(危害要因重要管理点)などの時代の要請は管理も含めた高度な製造技術を育て、難易度の高い「にがり豆腐」の製造技術・機械開発も促進させ、自動化ラインで高品質製品が製造されるようになった。
豆腐製造は、他の食品加工と比較して、工程が多く性状の変化も複雑である。そのため各工程機械装置への投資金額が限定される。各機械メーカーともに全工程の機械を製作し一連のプラントを完成させてはいたが、十分に機能しない装置が組み込まれるなど常に問題があった。今日では、豆腐製造工場の規模拡大で専業機械メーカーの参入を促し、各工程機械装置の性能を向上させ製造管理技術を発揮できるものとなった。
豆腐製造技術の推移を年代順にみると、
第2次大戦以前、凍り豆腐の乾燥は陽乾と火力によるものだった。陽乾は、凍結した豆腐を縄で編み、竹竿にかけて屋外で日干しする。火力による乾燥は、まず凍結した豆腐を桶に入れてむしろで被い、凍結した水分が溶けるまで後熟作用を起こさせる。次に、熱湯に浸漬してあくを抜き、圧搾機で水分を除去する。その後、乾燥板または竹簀の浅箱に並べて火力乾燥する。この場合、乾燥室は密閉した室に炉を設け、炭火を燃やして加熱する。多量に製造する場合は温突(オンドル)式乾燥室を用いた。
火力式の乾燥機は当初、蚕の乾燥室にヒントを得た回分式乾燥機が使われたが、他産業の乾燥室の発展に伴い、連続式乾燥機が導入された。回分式の乾燥室乾燥から半連続式のトンネル乾燥に移行したのは、昭和30(1955)年代後半のことである。旭松凍豆腐に半連続式乾燥機が導入されたのは昭和38(1963)年。昭和42(1967)年には自動化された全連続式トンネル乾燥機となった。
トンネル乾燥機と並んで使われたものに、バンド乾燥機がある。エンドレスの金網または多孔板のコンベアー上に凍結豆腐をのせて、熱風の平行流や通気流を送り乾燥させる。段数は1〜7段まである。この型は、連続通気乾燥機あるいはコンベアー型乾燥機とも言われる。凍り豆腐をコンベアーバンドにのせて輸送している間に熱風を循環して乾燥する連続型乾燥機であるが、段が変わるときに乾燥豆腐が積み重なる欠点がある。乾燥速度は品質に大きな影響を与えるので、乾燥温度、風量はデリケートな操作が要求される。
凍り豆腐というと、関西の高野豆腐と東北のしみ豆腐とがある。高野豆腐の起源には諸説があるが、信ずべきものとして次の説がある。
「鎌倉幕府三代将軍実朝の頃、高野山に覚海尊者という高層がいた。ある寒夜、豆腐をもって、遍照ヶ峰の坊に下りて供えて、供養した後、供えた豆腐は一夜のうちに凍って固くなってしまった。弟子達は、飴色に変わった豆腐を怪しんだが、師尊者は、これは凍り豆腐というものだと教えて、そのままガリガリ食べてしまった。弟子達もこの凍り豆腐を粥に入れて炊いてみると、異なった舌触りの、良い味のものであった。それ以来、高野山では、夜空に豆腐をさらして、凍らせた豆腐を食べていた。その後、高野山の夜は0℃以下になって凍るが、昼は0℃以上となって氷を溶かして乾燥し、これを繰り返して、多孔質の凍り豆腐になった。」
東北でつくられていた凍り豆腐は乾燥させたものであるが「凍りつくような激しい寒気で、ものがかたく冷えちじむ」意味の、しみ豆腐といわれた。
第2次大戦以前、凍り豆腐の凍結は自然凍結法だった。高橋東京大学教授の書によると「小型に切った生豆腐は幅1尺(約30センチメートル)、長さ6尺位の凍結板、又は、簀の子に約1寸(約3センチメートル)の間隔をおいて並列して屋外の風通しのよい場に予め設けた棚の上にのせる。極寒の夜ならば、大抵一夜で十分氷結する・・・」とある。
大戦後は、凍結機が急速に普及した。豆腐の凍結装置はエアブラスト式がほとんどで、主にMT式多段水平移動式凍結装置と、フィガネン台車式凍結装置が用いられる。
MT式多段水平移動式凍結装置は、冷却板に乗せた豆腐を多段板式コンベアーで移動させながら凍結する。折り返し点では、冷却板が裏返しにならない工夫が施されている。これは長尺を要する冷凍装置をコンパクトにする役目を果たし、通常300メートルを要する全長を、わずか30メートル程に縮小している。
フィガネン台車式凍結装置は、冷却空気が豆腐の左右を交互に当たる構造になっており、凍結の中心が片寄らず、加えて風速が早いため、エアブラスト凍結方法の中では最も短時間で乾燥ができる。これらは凍結中の乾燥防止のために、温度の低下を数段階に分け、冷却の進行に従って送風が調整される。
一定の温度条件では、風速が大きいほど凍結が早まる。凍結により豆腐表面には氷結晶が組織されるが、急速凍結では結晶組織が微細になるため弾力性や脱水性が抑制される。他方、緩慢凍結では結晶組織が粗大になるため、弾力性、脱水性は促進する。
型箱に豆乳を入れて圧搾する方法は、明治から現在に至るまで、基本的に変わらない。また、豆腐といえば四角い立方体という通念による影響があるのか、「豆腐集説」(明治5年)に描かれた型箱と昭和50年頃の型箱を比較しても、あまり変化は見られない。
凍り豆腐の型箱には多少の変化が見られるが、これは圧搾作業の変化に対応したものである。
従来の圧搾作業は、ジャッキ、梃子式、重錘式など専ら人手に頼るものであったが、昭和34年(1959)に羽二重豆腐、みすず豆腐で、型箱をコンベアーに並べて移動させ上部から押圧臼ローラで圧搾する方法が採用された。また、型箱の素材も木材から合成樹脂へと切り替わり、豆腐と型箱の側板との密着がなくなったため、従来敷かれていた布は不要となった。(ちなみに凍り豆腐工場では昭和50年頃まで豆乳は手動で型入れされていた。)
また、変わった成型方法として、焼豆腐工場で使用される自動凝固成型機を挙げることができる。これは豆腐を帯状に成形し自動的に切断するもので、昭和57年(1982)に開発された。
第2次大戦後、袋入り豆腐という新しい形式の豆腐が売り出される。豆乳と凝固剤を袋に入れて加熱する長期保存用の豆腐である。豆乳と凝固剤の混ぜ方、袋への充填方法に技術的な工夫を要するが、以下に挙げる2方法がある。ひとつは、冷却豆乳に凝固剤を加えた豆腐母液を袋に充填して加熱殺菌する方法である(調整豆乳母液充填方式)。もうひとつは、高温豆乳に凝固剤を充填し凝固殺菌する方法である(調合充填方式)。前者に対応する充填機には、一般にジュース、ゼリー、練歯磨用などが流用され、後者の場合は、スタティックミキサーを使って一定比率の豆乳と凝固剤を充填機に送る。
豆腐製造工場が大規模化するにつれて、濾過工程における大量処理が求められるようになる。
この要請に応えて、はじめに採用されたのが、遠心分離機である。しかし、これは滓(かす)がバスケット周辺に固く付着するため、滓を掻き取る手作業を要し不便であった。
そこで、この滓の掻き取り作業を自動化したのが「ロータリーセパレーター」である。円筒形の濾過ドラム内に呉を流入し、ロールで加圧して濾過する構造だが、圧搾の決め手となるドラムの芯がうまく出せず、ユーザーからの苦情が続出して製造中止に至った。
こうした中で考案されたのが「フルマーク」という濾過機である。昭和38年(1963)に高井製作所が製作した。これは、製餡(せいあん)に使われていたトラベリング・パン・フィルターにヒントを得たもので、その構造の特徴は2段階の濾過にある。第1次濾過管内の金網(90〜100メッシュ)による、加圧しない自然濾過で、ミジン(細かい滓)の入らない豆乳を7割くらい濾過する。続いて、第2次濾過管にある2本のゴムロールで残ったおからを絞る。この豆乳にはミジンが含まれているので、第1次濾過管の原液に加えて循環させる。
豆腐業界で、こうした滓の連続濾過に腐心している間に、他産業では、滓を網面から連続的に排出する「連続真空濾過機(オリバーフィルター)」と、滓をスクリューで掻き取り連続的に排出する「横型遠心分離機(スクリュー・デカンター)」という濾過機が開発されていた。
技術的に安定感のあるこれらの濾過機は、その後豆腐業界でも主流をしめることになる。
豆腐製造の主要装置の1つである粉砕機は、明治時代は手動であったが、大正7年(1918)頃、「豆腐集説」に描かれた水平型の石臼は、モーターで駆動する方式に変わっている。
ちょうどその頃、石川県の高井製作所は、水平型の石臼とは粉砕方式を異にするヘリカル・ギアー型の粉砕機を発明した。これは、螺旋の刻みを入れた2本の石のロールで粉砕する方式で、動力は足踏みであった(第2次大戦前にはモーターが取り付けられた)。
第2次大戦後には、石臼を垂直に取り付けてモーターで回転させる“関東オガミ臼型”と呼ばれる粉砕機が作られる。この関東オガミ臼型の石臼を鉄臼に換えたものが、ディスク・グラインダーである。
戦後、パルプ工業で、一斉にディスク・グラインダーが輸入されるようになると、昭和29年(1954)頃から豆腐製造用として、金剛砂を吹き付けたディスク・グラインダーが製作される。
昭和40年(1965)頃から、豆腐工場の大規模化が進むと、ディスク・グラインダーに代わって能率のよい衝撃式粉砕機が用いられるようになる。これは、角型の金属製突起が噛み合った状態で回転しながら、吸水大豆を粉砕するものである。石臼やディスク・グラインダーでは摺って細砕するのに対し、衝突式では烈しく金属にぶつけ、切断も加わって細砕する。
その後、この衝突式が一般化していく。
明治5年に、豆腐製造について書かれた「豆腐集説」という本がある。当時の豆腐製造について、図版を多数載せて詳しく解説した本である。豆腐作りの片桐寅吉という者が口述したものを、榊原芳野が記述したもので、原稿が文部省の用紙に書かれていることから、職人教育の資料として作られたのではないかと想像されている。
この本を見ると、動力が人力からモーターに変わったくらいで豆腐機械の基本形は昭和の初期に至るまであまり変化がみられない。これは、豆腐機械が海外でほとんど作られていないため輸入はなく、わが国の技術の閉鎖性も加わって、変化を求めずに進歩が遅れたものと思われる。
豆腐を作る主要な装置は次の3点。
明治初期の粉砕機は、わが国では古くから馴染みの深い、水平の石臼(「豆腐集説」では磑と書いている)を、天井から下がっている棹(さお)を人力で廻して粉砕していた。
次の工程では、滓(かす)の入っている呉を加熱した後、布袋に入れ、桶の上の桟(さん)上に置き、長い棒の一端を固定し、他端に重しを吊り下げ、梃子(てこ)を利用して絞り、豆乳をつくる。
絞られた豆乳は、大桶の中で撹拌しながら、にがりを加え、凝固物をつくる。これを竹製の扁籃(盆ざるの大形のようなもの)を中に入れ、小石を載せておくと、次第に沈んでゆき、上に豆腐の湯がでてくるので、これを汲み出す。箱(集説では匣と書く)の中に単布(しきぬの)を敷き、その中に凝固した豆乳を汲み入れる。布の余分なところは箱の外に垂らしておき、豆乳を汲み入れた後、四方から包むようにし、その上に簀(す)を敷き、蓋を覆って重しをし、箱の四方の孔から水を出す。この箱から出したものが豆腐である。

豆腐といえば、木綿豆腐と絹ごし豆腐の2種類が頭に浮かぶ。この2つのちがいをご存知だろうか?「木綿でこしたものが木綿豆腐、絹でこしたものが絹ごし豆腐」と思っている人が案外多いようだ。でも、これはまちがいである。
表面にザラザラした布目がついていて少しかたく、弾力感があるのが木綿豆腐の特徴。木綿豆腐をつくる場合、豆乳に凝固材を加えて固めたもの(おぼろ豆腐)をいったんくずし、このとき出てくる黄色い上澄み液「ゆ」をすくい取ってから、穴のあいた型箱に入れて圧力をかける。さらに残っている「ゆ」をしぼり出すと木綿豆腐ができる。表面に布目がついているのは、この型箱にこし布を敷くからである。
絹ごし豆腐は、なめらかな舌触りとツルンとしたのどごしが決め手。こちらは、豆乳をそのまま型に入れ、凝固材を加えて固める。木綿豆腐とちがって、「ゆ」を絞る「ゆ取り」をしないので、水分が多くなめらかな仕上がり。型に布をしく必要がないので、表面に布目はつかない。
このほか、ソフト豆腐、充てん豆腐という種類もある。豆乳をいったんゲル状に固めてから木綿豆腐用の型箱に入れて成形したソフト豆腐は、木綿と絹ごしの中間という感じ。充てん豆腐は、豆乳を一度冷やしてから、凝固材といっしょにパックに入れて密封し、加熱して固めたもの。1〜2ヶ月は保存できるという長所がある。
豆腐をただ四角に切り、鰹節をのせ、醤油で食べる。冷や奴ほど素朴な味わいのある食べものも少ないだろう。
冷や奴の「奴」とは、豆腐の切り方からきた名であることは、あまり知られていない。
豆腐を四角に切るのを「奴に切る」という。その四角の形が、江戸時代の武家の下僕・奴の印として着物につける方形の紋に似ていたところからその名がついた。奴とは、大名行列の先頭に立って槍をふり歩いている、あの「奴さん」のことである。
ちなみに、豆腐の切り方にはいろいろな呼び名があり、小さい短冊に切るのを「はちはい」、小さなさいころ型に切るのを「さいの目」、色紙型にうすく切ったものを「おつゆ」という。
だが、奴説に反対する意見もないわけではない。
冷や奴のほんとうの名は「ひややか豆腐」であるというのがそれだ。冷(ひややか)のことを「ひやっこい」といい、それがなまって「やっこ」になった。その「やっこ」がいつからか豆腐そのものを指すようになり、冷たいのを「ひややかやっこ」、それが再びなまって「ひややっこ」になったという。まことにややこしい話である。
しかし現在では、奴の紋からきたというのが通説になっている。
豆腐の異名は、数えきれないくらいたくさんある。むかし、宮中では、豆腐を「おかべ」と呼んでいた。いわゆる女房言葉である。「今日のおかべはとてもおいしい」などといわれても、庶民にはピンとこない。だが、そのピンとこないところを高貴な女性たちは好んだ、と思われるフシがある。
というのも、宮中に仕える女房たちは、はっきり物を示さず、あいまいにほのめかしていうのが上品なことだと考えていた。髪のことをいうにも「かもじ」といっていた。「かもじ」は、かの字がつくものという意味で髪を指した。こうなると、もう暗号である。
ところで「おかべ」が豆腐を指すようになったのはなぜか。そのむかし、岡部治部右衛門という武将がいた。一説では岡部六弥太ともいう。豊臣秀吉の朝鮮征伐に兵糧奉公として加わり、朝鮮で豆腐の作り方を覚え、日本に伝えたともいわれている。この岡部治部右衛門の「岡部」をとって「おかべ」と呼ぶようになったというのが一説。
しかし、豆腐が日本に伝来したのは秀吉の時代より、ずっと古い。また、室町時代の宮中でもすでに「おかべ」という言葉が使われていたから、この説は明らかな間違いである。
じつは、すこぶる単純に、豆腐の白さが白壁の色と似ていたから、というのが真相のようだ。つまり、「壁」に御をつけて、ていねいに「おかべ」といったににすぎない。「お」をつけず、ただ「かべ」と呼ぶ場合もあった。
豆腐の別称は、ほかに「しろもの」「もみじ」「六弥太」などがある。「もみじ」と呼んだのは、江戸時代の豆腐に紅葉の印がついていたため。「六弥太」は、前述の岡部治部右衛門が六弥太と称したことに由来する。
大豆をつぶして煮たどろどろの液体を「呉(ご)」という。豆乳はこの呉を絞ってできる汁だが、そのときに残る絞りかすは「おから」である。「お殻」、つまり豆乳を絞りとったあとの殻を意味する。
殻といっても、ただの殻ではない。たんぱく質や脂肪がまだたくさん残っているし、豆腐にはない繊維質が多量に含まれている。繊維は大腸の働きを活発にするだけでなく、小腸での消化吸収を助けるので便通をよくし、腸内にたまった残留物の掃除までしてくれる。
ご存じのように腸内の残留物は、発ガン原因のひとつと考えられている。したがって、おからの繊維は腸ガンの予防にも役立つのである。
ひとむかし前までは、おからも豆腐と同様、大切な栄養源だった。豆腐以上に安いので、貧しい人々はおからを食べて苦しい生活に耐えた。
このように親しまれたおからには、いくつかの異名がある。「雪花菜」というきれいな表現は、中国名の「雪花(シュエホウ)」をそのままもってきたものである。
卯の花は、初夏に白い花を咲かせるユキノシタ科の植物で、むかしから和歌や俳句にうたわれてきた。おからの白さがこの花の色と似ているところから、「卯の花」と呼ばれるようになった。「きらず」もおからの別名で、これは文字どおり調理のときに包丁を使う必要がないためにこの名がついた。
つまり、「おから」は製造過程から、「雪花菜」は中国名から、「卯の花」は外見、「きらず」は調理する立場から、それぞれつけられた名前だということになる。
今回は、お豆腐に関するひとことコラムです。
大豆にはたんぱく質が豊富に含まれている。だが、実のところ、大豆そのものを煮たり蒸したりしただけでは、たんぱく質がカラダに吸収される率は、あまりよくない。水に溶けないたんぱく質が含まれているせいだ。煮大豆の場合、たんぱく質の吸収率は65%。
その点、豆腐は水を含ませた大豆を砕いたものを水と一緒に加熱し、漉してつくった豆乳ににがりを入れて固めたもの。つまり、原料となるのは、水溶性のたんぱく質と良質の脂肪のみなので、当然吸収率はいいというわけ。
もっとも、豆腐の中身は水分がほとんど。効率的にたんぱく質を摂るなら、いったんにがりで固めたもの(絹ごし豆腐のもと)をくずして圧縮した木綿豆腐を選ぶといいだろう。
味噌汁の具にしていただけば、たんぱく質と発酵食品のメリットが同時に得られて、一石二鳥です。
大豆といえば、なにはともあれたんぱく質だが、脂質が多い食品としても知られている。大豆油が取れるくらい脂肪分を含み、その含有率は全体の20%にも及ぶ。
植物油の油脂には不飽和脂肪酸が多く含まれていて、これが血液の流れをスムーズにし、コレステロール値の低下などにつながることがわかっている。
大豆の脂肪に豊富に含まれているのは、リノール酸やリノレン酸。もちろん、これらも不飽和脂肪酸の一種だ。ヒトの体内では合成することができないので、必須脂肪酸とも呼ばれている。
これら不飽和脂肪酸は確かにカラダにいい。だが、非常に不安定な存在で酸化されやすいという弱点もある。ところが、そのへんは抜かりナシ。大豆には抗酸化ビタミンであるビタミンEも豊富に含まれている。だから不飽和脂肪酸が酸化されにくく効率的に摂れるというわけ。
ちょっぴり辛い麻婆豆腐の本場は、中国四川省成都郊外。ここの麻婆豆腐は、一口食べると口の中がカッと燃えてきて、やけどしそうな辛さと熱さ。でも麻婆豆腐は、塩の辛さと違い、のどを過ぎたあとは、舌がカラッと乾いたような感じで、また食べたくなるそうです。麻婆豆腐の魅力は“のど元すぎれば辛さ忘れる・・・”ですね。
江戸時代の農書『粒々辛苦録』によると、元日には朝早く起き、この日初めて汲んだ水を茶釜に入れ、豆がら(大豆の茎)を燃やして湯を沸かしたとあります。豆がらが、パチパチと音を立てるのを”鳴祝い”(なりいわい)と呼び、これを初火焚としました。重要な作物だった大豆は、ただ食べるだけでなく、生活の習慣と密接に結びついていたようです。
そば対うどん、握りずし対押しずし、というように昔から関東と関西は食べもので、よきライバルといえる。豆腐の性質にしても、関東風のものは腰が強く、冷奴向きだが、関西のものは口あたりがソフトで、湯豆腐によくあう。東西の豆腐に性別をつければ、関東が男性で関西が女性であろう。東男に京女、という諺は豆腐の世界にも生きている。
沖縄の豆腐の別名は、イモの巡査。イモを食べて胸につかえた時、豆腐を食べてそのつかえを取るからだ。また、カジマヤーという九十七歳の長寿の祝いには、豆腐を薄く切ってやいたロクジューが二枚重ねて祝膳に出る。ロクジューが二つ重ねて百二十、つまり百歳を超えてもなお健康で長生きしてほしいと願いがこめられている。
ふわふわ豆腐に結び豆腐、叩き豆腐にちりめん豆腐、かすてら豆腐に鞍馬豆腐・・・。「豆腐百珍」は今ならさしずめ豆腐のブリタニカ。今から二百年も昔、醒狂道人何必醇なる人が記したとか。ところがこの方の正体は不明。日本人やら中国人やら。料理人やら素人やら。次は「豆腐料理を20倍楽しむ本」でも執筆していただきましょうか。
「ほととぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里」江戸時代の狂歌です。ホトトギスのさえずりが聞かれるような山里でも、そう遠くない所に豆腐屋さんはありました。一部の人の食べ物だった豆腐が江戸のころから手に入るようになったのです。さしずめキャッチフレーズは“あなたのそばの豆腐屋”です。
「豆腐にかすがい」、「豆腐の角に・・・」の例えのごとく、どうも豆腐は分が悪いことが多い。それは、彼のおとなしい性格が原因だろう。しかし、最近は低カロリーで高たんぱく、健康食品としての名声を得ている。米国でも「ホワイトケーキ」と呼ばれ、女性のダイエット食になっている。どうやら豆腐にも、主役の座が巡ってきたのかもしれない。
坂本竜馬を生んだ土佐は、食べ物でも開拓精神が旺盛だ。土佐に豆腐が上陸したのは、秀吉の朝鮮征伐の時、九州の各藩は競って陶工を伴ったが、土佐人が連れてきたのは、朝鮮の豆腐職人だった。食べ方は冷奴、湯豆腐など少ないが、大鍋にまるごと一丁入れて作る湯豆腐は、野武士的な豪快さだ。竜馬も寒い夜は、この湯豆腐で暖まったかもしれない。
冷水をはった器に盛られた四角の豆腐は、夏を感じさせる旬の味。ところが、中国の豆腐を冷奴にすると、ちょっと風情が失われてしまうのです。中国の豆腐は、固く丸い大きなかたまりで売られています。やはり冷奴にビール、それに枝豆という日本人の夏には、軟らかくて四角い、まろやかな日本の豆腐がよろしいようです。
禅僧が豆腐を中国から伝えたばかりの頃、豆腐は僧家や都会の上流社会の人にしか、食べられていませんでした。それが室町時代になると、庶民のあいだにも、禅風の食事が普及し、注目されたのが豆腐料理です。寺の門外に出た豆腐は、庶民の手によってさかんに作られるようになり、すっかりまちの人気者になりました。
江戸時代、目黒のサンマに負けないくらい評判を呼んだのが吉原の豆腐。遊郭街の吉原には遊女と一夜をともにした翌朝、豆腐をおかずに軽い食事をとる習慣があり、その豆腐は別れを意味するところから後朝(きぬぎぬ)の豆腐と名づけられた。江戸っ子が遊女とさし向かいで食べる後朝豆腐は、さぞかし複雑な味がしたにちがいない。
天明のころのことわざ集「譬喩尽ヒユヅクシ」によれば、豆腐と女は京が最高であるという。田舎の豆腐は固くて、縄でしばって下げることができるほどの物だったそうである。そのかわり、反対にやわらかくてうまい豆腐を作る都会は、人の性質も悪賢いという関係もまた成りたつ。とすれば、豆腐のおいしい土地も考えもの。この関係、果たして現在にも通用するのやら。
日本人の求心的、彫刻的に、中国人は遠心的、塑造的に豆腐を調理するそうな。すなわち、日本人の調理はその物の本質を絶対に忘れない。そのものの旨味を賞味するような方法を最も好み、冷奴と湯豆腐を最高の賞味方法と考えています。要するに、豆腐の刺身。さしずめ冷奴は洗い。本質を離れ、個性を減却することは恥ずべき行為とか・・・。
大豆は優れた蛋白源と脂肪に富んだ食品ですが、昔から精進ものを食べている僧侶に長寿者が多いことが指摘されています。豆腐及びその加工品も、その意味で長寿食として大いに歓迎されてもよいものです。親鸞・叡尊の90歳、普門の80歳、無住の87歳、法然・文覚の80歳、栄西の75歳、一休の88歳。名雄、色を好み、名僧、豆腐を好む。
今や豆腐は、アメリカ大陸にすっかり根をおろしたようだ。全米各地のスーパーにはトーフバーガー、トーフサラダ、ソイミルク(豆乳)などがにぎやかにならび、さっぱりとした豆腐の味は大人気。そのうえ、自家製の豆腐を作る機械まで登場し、その研究心はおとろえを知らない。そのうちアメリカ版豆腐百珍が出版されるようになるかもしれない。
維新の人物で、一番の豆腐好きは「花神」の主人公の村田蔵六であろう。蔵六は若い頃、大阪の適塾で寝る間も惜しんで蘭学に励んだ。その時、唯一の楽しみが豆腐を肴に飲む酒であった。のちに彼は、教え子にこんなふうに語った。「豆腐には、全ての栄養と知性が含まれている。」後年、暗殺されたその夜も、蔵六は湯豆腐の鍋を囲んで飲んでいたという。

ホテルグランヴィア京都で開かれた京都府豆腐油揚商工組合の新年懇親会。
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社史を読むだけでも永持孝之進名誉会長経営哲学が見える1冊。
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