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久保田万太郎は小説家、劇作家、俳人、演出家と多方面で活躍した文学者である。元NHK文芸課長でもあった。万太郎は明治12(1869)年、浅草の袋物製造職人の子として生まれ、幼いころから豆腐に親しむ環境にあった。
豆腐が第一の好物で、次に油揚げの焙烙焼きを好んだ。洋食では豚カツとカレー。脂っこいものではウナギ。下町商人の総菜のたぐいが好きだった。「湯豆腐」と名付けた小唄を作り、その歌詞には「身の冬の とゞのつまりは 湯豆腐の あはれ火かげん うきかげん 月はかくれて雨となり 雨また雪となりしかな しよせん この世は ひとりなり 泣くもわらふも 泣くもわらふもひとりなり」とある。
また「湯豆腐や持薬の酒の一二杯」(昭和27年)、「湯豆腐のまだ煮えてこぬはなしかな」(昭和28年)、「湯豆腐やまたあく雪の腰障子」(昭和28年)など、湯豆腐を詠んだ秀句も多い。万太郎自身は「俳句は自分にとって余技にすぎない」と語り、何より小説を一番に、次に戯曲を重視していたが、彼の小説は友人の芥川龍之介ほどには評価されなかった。万太郎が著したのは人情大衆小説だった。小説が時流に乗り、市村座や新派・新富座の演出を手掛けるようになり、戯曲が歌舞伎座で上演されるに至り、昭和32(1957)年には文化勲章まで受章している。
万太郎の小説や戯曲は通俗的であるとして、現代の日本文学史から顧みられることは少ないのだが、皮肉にも本人が軽んじた俳句については、正直な心情の吐露や肩肘張らぬ哀愁などを表している点で、現在でも評価が高い。万太郎の湯豆腐の句で、最も人口に膾炙しているものは、昭和37(1962)年、同棲する愛人の三隅一子が死んだ通夜の追悼句であろう。
「湯豆腐や いのちのはての うすあかり」
万太郎73歳の作である。万太郎の本妻・きみは当時まだ40歳代で、湯島の本宅に控えていたが、万太郎は60歳代の一子と赤坂に居を構えていた。翌昭和38(1963)年、赤貝の握りを注文した万太郎は食餌誤嚥による気管閉窒息で命を落とした。流行作家で「演劇界のボス」とも呼ばれた万太郎だが、家庭的には恵まれなかったといわれる。享年74歳。

ホテルグランヴィア京都で開かれた京都府豆腐油揚商工組合の新年懇親会。
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社史を読むだけでも永持孝之進名誉会長経営哲学が見える1冊。
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