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国産大豆サミットは4年前の「2005豆腐フェア(東京展)」に第1回が開かれ、大豆生産者からの目線、また豆腐業者からの目線で国産大豆の真の価値を見出すことを目的としてきた。
6回目を迎える今回は、豆腐製造業の価値を創造する視点で考えたい。
豆腐業者数は昭和20年代に3万軒を超えていたが、今や半分以下の1万4,000軒。未曾有の不況の中で、豆腐業者はこれからどう生きていくべきかを、4人の各パネリストの立場、売り方、商品の作り方などから検証したい。(石川伸おとうふ工房いしかわ社長)
昨年11月に全国豆腐油揚商工組合連合会の青年部活性化推進委員会による研修会で、「豆腐屋はカッコイイ〜!!」をテーマにディスカッションを行った。その続編と位置づけ、進めていく。
豆腐業者は多様化し、価値観も大きく変わってきた中で、どこにベクトルを定めるべきかを考える。まずはパネリストの自己紹介から。
当社は、滋賀県彦根市で明治42年に創業。今年1月20日で100年目を迎えた。私で4代目になる。
初代は湯葉屋に丁稚奉公し、のれん分けで独立する際、豆腐屋に鞍替えしたと聞いている。2代目は婿養子で、もともとはスーツを仕立てるテーラーの職人だった。初代と2代目によって基礎が固まり、活動的だった3代目の父親が営業網を広げた。
父親は50年前にドイツ製の給水電磁弁を購入して自ら漬け豆用の給水タイマーを作るなど、独自に自動化を先駆けて行い、製造規模を拡大。今では近畿圏内はもとより、北は富山、西は愛知の一部まで商品を供給している。主にスーパー卸だが、料亭や居酒屋への業務用卸も行っている。
豆腐屋を始めて30年目。私は今年で還暦を迎えた。香川県に生まれ、大阪に出てきてから転職を7回繰り返し、30歳のときに脱サラを決意、1年2か月の修行を経て「三好商店」を開業した。
なぜ「豆腐店」ではなく「商店」なのかというと、大豆はすばらしい生命力を持った材料であり、豆腐に限らず幅広い商品を提供したいと考えたから。豆腐業の仕事はまったく苦にならず、性に合っている。だからこれまで30年間、1日も営業を休んだことがない。他人が作ったものを売るのは難しいが、自分で作ったものを自分で売るのは、お客の声が直接聞けてすぐに対応できるから、こんな簡単なことはない。
平成17年に約5,000万円を投資して新店舗を立ち上げた。正直に商売を行うため、作業場は全面ガラス張り。お客が隅から隅まで見渡せるようにして、「安全・安心・おいしさ」を自分の目と耳と口で感じてもらえる店作りを具現化した。
軽自動車6台での移動販売を含めて、現在の年商1億2,000万円。2億円をめざしている。自分で作ったものは、自分で値段を決めて自分で売る。それがポリシー。
贈答されて喜ばれる豆腐、贈る側が自慢できる豆腐を作りたいとの思いでやってきたが、もはやそれだけでは生き残れないことを実感している。
当店は天保5年(1853年)に京都で創業。今年で175年目になる。京都の食文化の伝統を継承しつつも、新しいことにチャレンジする姿勢を貫いていきたい。
明治の終わりに曽祖父が開業。大阪の住吉大社にほど近い商店街に店を構え、私で4代目になる。
幼いころから両親の仕事ぶりを見てきて継ぎたくないと思っていたが、18歳のとき「継がないのであれば店を畳む」と父親から言われ、寂しい気持ちが沸いてきて、嫌になったらやめようと、とりあえず家業に入った。
当初は仕事がおもしろくなかったが、大阪府豆腐油揚商工組合が青年部を発足することになり、顔を出したところ、研究熱心な人が多く、作る豆腐もすごくおいしくてカルチャーショックを受けた。しかも作り方を聞けば、みんな気軽に教えてくれる。それを店で実践し、お客に褒めてもらえるようになったのがうれしくて豆腐業が楽しくなった。今でもそれを忠実に守り、励んでいる。
現在、青年部の部長を務めているが、すばらしいメンバーがたくさんいる中で、こんな自分でも役に立てることがあればと思い、引き受けた。

ホテルグランヴィア京都で開かれた京都府豆腐油揚商工組合の新年懇親会。
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社史を読むだけでも永持孝之進名誉会長経営哲学が見える1冊。
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